目次
- 「サワコの朝」の又吉直樹さんにインスパイアされて
- 「トロッコ」はどんな話か(あらすじ)
- 邪悪さのない感情豊かな少年
- 走りながら帰るシーンが映画のように情景が描かれる。
- 8歳の少年が出会った他者という世界
「サワコの朝」の又吉直樹さんにインスパイアされて
5月23日(土)。「サワコの朝」を興味を持って見始めました。
ゲストが又吉直樹さんだからです。
又吉さんは、お笑い芸人を描いた小説「火花」がベストセラーになり、三島由紀夫文学賞を惜しくも逃したという話題の人で、私も名前だけは知っていたのです。
最初に紹介される又吉さんが思い入れのある音楽は、遠藤賢司さんの「カレーライス」。(Youtube:「カレーライス」作詞・作曲:遠藤賢司)
うん、よく分かりません。
しかし、面白かった。歌が面白いというより、歌の中に自分の好きな世界がある、それを見つける又吉さんに感心しました。
それと、又吉さんが子どものときに読んだ芥川龍之介の「トロッコ」の話が印象に残りました。その読んだときの感じ方、読みとり方が凄い。
もう日が暮れる頃。8歳の少年良平が若い二人の土工と三人でトロッコを押して遠くまで来たけれど、「もう帰んな」と良平だけを置いて二人の土工は去ってしまう。
それを読んだ又吉さんは「うわ、めっちゃわかる!」と感じたそうです。自分にしか分からないと思っていた感情を自分以外の作家が表現している。そういう事に感動をして興味を示す訳です。
私も小学生のときに読んだと思います。教科書だったか、夏休みの友だったか。そのとき、情景のようなものは思い浮かびましたが、又吉さんのように特別の感情は湧きませんでした。
又吉さんは、感じた感情をしっかり捉えて、分析して話します。なんとなく読むだけでは他人には話せません。自分の状況、感情を的確に分析している。そこが見事です。
これだけのことを子供のときにできるのか、私ならどうなんだろう。
それで、芥川龍之介の「トロッコ」を読んでみたいと思ったのです。
「トロッコ」はどんな話か(あらすじ)
1922年(大正11年)に芥川龍之介が発表した小説です。
東京の或雑誌社に勤めている良平がときどき、ふと思い出すという少年時代の話だというのが最後に書かれています。(青空文庫からPDFファイルを作りました)
- 舞台 小田原、熱海間に軽便鉄道敷設の工事が始ります。モデルは熱海鉄道(wikipedia)。「湯河原出身のジャーナリスト力石平三が、幼年時代に人車鉄道から軽便鉄道への切り替え工事を見物したときの回想を記した手記を、芥川が潤色したものである。」という記述がウィキペディアにあります。
- 最初のシーン 良平はトロッコで土を運搬するのが面白いので、毎日村外れへ見に行く。トロッコに乗った土工が二人。良平はトロッコに乗れなくても良いから押したいと思う。
- 2月の初旬 良平、6歳の弟、弟と同じ年齢の子供と3人でトロッコを見に行く。土工がいないのでトロッコを押す。8歳の少年と6歳の少年二人で押せるのですから、そんなに大きくないのでしょう。
坂を押して上り、めいっぱい上がったところでトロッコに乗るとトロッコは走り出す。また、トロッコを押して坂を上り、トロッコに乗って遊ぼうとするが、土工に見つかって怒鳴られ、逃げます。良平は二度とトロッコに乗らないようにしようと思う。 - その十日余り後 良平は一人でトロッコを見ている。トロッコを押しているのは若い土工です。良平はこの二人は親しみやすいと感じたので「おじさん、押してやろうか」と話かける。三人で話しながらトロッコを押していく。
「われは中中(なかなか)力があるな」などと言われると良平は悪い気はしない。線路が下りになると一緒に乗せてもらう。
風景は変わり、だんだん遠くなると良平のワクワクした楽しい気持ちは消えていく。「もう帰ってくれれば好い―」と思うが、目的のところまでは行かなくてはいけないと考えているのか良平は何も言い出しません。
-
茶店の前にトロッコは止まる。二人の土工は店の中に入って乳飲み子をおぶったお上さんと悠々と話す。良平はイライラする。しばらくして土工が店から出てくると買ってきた駄菓子を良平にくれる。良平は冷淡に「ありがとう」と言う。冷淡にしたことをすまなく思う。
-
また茶店に止まる。土工は店の中に入る。良平は帰ることばかりを考えている。日は暮れかかっている。
土工が店から出てくると「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」と言われる。
良平は呆気にとられる。約束をしていた訳でも確認した訳でもないが、遅くなっても一緒に帰るつもりでいたのだ。良平の期待は裏切られる。一人で帰らなければなないこと、今まで歩いたことない距離のことが一瞬でわかる。土工にお辞儀をして走りだす。
- 良平は泣きながら帰る。もらった菓子を捨て、草履を捨て。村に入ると明るく電燈がついています。
自宅に入り、わっと泣き出すと父、母が駆け寄ってきます。母は良平を抱き寄せます。あまりに泣くものですから近所から女性が何にか様子を見に来ます。それでも良平は泣き続けるのでした。
今まで泣かなかったのに、家に帰ると泣き出すのは、泣いても良いところに来たからです。
誰もいない所でないても誰も聞いてくれず、なだめてもくれません。
優しい父、母のいる守られた場所に戻ってきた安心感からでもありました。
邪悪さのない感情豊かな少年
「トロッコ」では8歳の少年である良平が描かれます。読んで感じたのは、良平は邪悪さのない純粋で善良な少年だと言うことです。
トロッコに興味を持った良平が「押してやろうか?」と話します。快い返事をもらって二人の間に入り、トロッコを押す。「われは中中(なかなか)力があるな」と言われます。良平は仲間になったような気がして嬉しかったでしょう。大人が一人前として扱ってくれましたから。
二人の若い土工は茶店の前に止まり、乳飲み子を背負ったお上さんと話します。乳飲み子がいるのですから、お上さんもまだ若いでしょう。三人の間には良平の入り込めない大人の世界が広がっていたことでしょう。それが、良平をよけいにイライラさせます。
こういうシーンに私は「あるある!」と注目します。芥川龍之介にもそういう心理があり、共有できるのではないかと考えてシーンを構成したのでしょう。
帰り道のときのことを考えていたのに「われはもう帰んな」と言われます。
少年は一瞬で状況を理解します。それが理不尽というより、仲間として受け入れられた喜びがあったのに自分が見捨てられたという感覚でしょう。親なら甘えて何か言ったかもしれませんが、良平は「一緒に帰ろうと思っていたのに・・・」と自分を主張することもありません。
走りながら帰るシーンが映画のように情景が描かれる。
ふところの貰った駄菓子を捨て、草履も捨て、足袋で走る。涙がこみあげる。羽織も脱いで捨てる。描写されるのは「命さえ助かれば―」という恐怖、そして村へ着いたときの安堵です。
「命さえ助かれば」というのは大げさにも感じるかも知れません。大正11のことですから線路沿いに街燈などはなかったでしょう。それに、暗闇の恐怖は子供の方が大きいのです。私が子供のときは雷や暗闇は今よりずっと怖く感じていたものです。
自分がトロッコを押すのを手伝ったことへの後悔、トロッコは戻るものだと思い込んでいたという推理力のない自分の未熟さ、期待を裏切った大人たちへの非難。そんな感情が湧いてきそうですが、描かれることはありません。ただ、情景だけが描かれます。
それを書いてしまうと、又吉さんのように少年の気持ちに感情移入してしまった人には、想像して作ってしまったイメージをうるさく説明されているように感じるのかも知れません。
8歳の少年が出会った他者という世界
この話を読んで考えたことがあります。
それは、もし「もう帰んな」と言われたのが若い土工でなくて、良平の両親のような存在だったら、一瞬で状況を理解したり、礼儀正しく一礼をしたりはしなかったのではないかと言うことです。
私が小学校に入った頃、父に約束を破られた経験があります。「お盆には本宮の花火に連れていってやる」と父が言っていたのですが、当日になって父に連れて行けないと言われたのです。今になって考えれば、父も仲間とバイクを走らせますから、父だけ子供を連れて行く訳にはいかなかったのでしょう。
私はこの理不尽さに対して、いつまでも泣き叫んていたのを記憶しています。お盆で来ていた大叔母が「父が悪い」というものですからなおさらです。
「親に約束を破られた」という私の経験と、良平が経験した「われはもう帰んな」はずいぶん違います。しかし、自分が考えていたように進まない理不尽さは似たようなものがあるでしょう。
私は自分の親だったので泣き叫んで抗議をしました。良平の相手は他人の土工でしたから、泣き叫んで抗議も出来ません。帰るというのは自分の勝手な思い込みでもあったので、礼儀正しくお辞儀をするしかなかったのです。
良平は大人の世界を知り始めていました。自分の思い通りには中々ならない他者という世界。その世界に初めて出会った大きな事件が「トロッコ」だったのです。
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