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「矢切の渡し」とは
職場で使っているPCのファイルを整理していたら、「矢切の渡し」から「野菊の墓文学碑」までを散策したときの写真が出てきました。
「矢切の渡し」は江戸川をはさむ葛飾柴又と松戸の矢切を結ぶ手漕ぎ船です。利根川水系の河川には15ヶ所の渡し場があったそうですが、現在でも運行されているのは「矢切の渡し」だけです。
名作の舞台
この渡しは小説『野菊の墓』、映画『男はつらいよ』・演歌『矢切の渡し』に登場します。見つかった写真を使いながら、「矢切の渡し」が登場する小説、映画、演歌を紹介してみます。
【江戸川の堤から】柴又から矢切に渡り、江戸川の堤に上ると一面に広がる畑が見えます。
【公衆トイレのとなりにある野菊のこみち】
小説『野菊の墓』の舞台
矢切の船着き場から江戸川の堤を越えると、「矢切の渡し」と大きく書かれた看板が見え、隣に「野菊のこみち」の出発点があります。「野菊のこみち」は歩いて20分程の西蓮寺にある「野菊の墓文学碑」までの散歩コースです。
『野菊の墓』の書き出しにはこんな表現があります。
僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。
(略)
母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
僕の家は次のようなところだと書いてあります。
- 松戸から二里ばかり下って
- 矢切の渡を東へ渡り
- 矢切村と云ってる所
「里見の崩れ」という表現もあります。矢切の少し南にはに里見氏・後北条氏が合戦をしたという古戦場あとの里見公園があります。その里見と関係がありそうです。
伊藤左千夫が矢切を小説の舞台にした理由は何なのでしょうね。
伊藤左千夫が生まれたのは現在の千葉県山武市の農家です(Google マップ)。自分が生まれ育った村から発想した小説だと思うのですが、九十九里浜に近い無名の村では大きなインパクトがありません。そこで、東京から生まれ育った千葉へ一歩へ踏み出した矢切(やぎり)という強いイメージのあることばの村にしたのではないかと思いました。
名前重要ですから。
西蓮寺にある「野菊の墓文学碑」
小説に登場する銀杏のモデルは「野菊の墓文学碑」のある西蓮寺の入り口にあったものです。現在はその一部が文学碑の敷地に植えられています。
碑の文は小説に登場する三つの部分を組み合わせて作られたものです。
- 僕の家を説明した部分
- 政夫が民子と茄子をもぎに行った裏畑からの眺めを描写した部分
- 二人が山畑へ綿を採りに行くことになり、気恥ずかしい政夫が銀杏の下で民子を待つ描写
小説の舞台となった矢切は市川市国府台の隣ですから、「市川」という言葉が数多く登場します。「船で市川へ出るつもりだから」、「今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に・・・」、民子が嫁に行ったのも「市川の内で、大変裕福な家」。「市川」という言葉は16回登場します。
おまけ
青空文庫からPDFに変換したもの:青空文庫から読みたい小説をPDFに変換したものをいくつか公開しています。その中に『野菊の墓』もあります。
映画『男はつらいよ』に登場する「矢切の渡し」
映画『男はつらいよ』にはよく「矢切の渡し」が登場します。ブログ『矢切の渡し | 男はつらいよ 飛耳長目録』によれば次の6作品に登場しているそうです。*1
『男はつらいよ』に「矢切の渡し」 が登場するのは、舞台になっている帝釈天参道の近くだからです。団子屋「とらや」から帝釈天の脇を通ると江戸川。堤防を越えるとすぐに「矢切の渡し」が見えます。
映画の中では穏やかなシーンとして使われることが多く、江戸川の景色が心を休まさせてくれます。
「矢切の渡し」と言えば演歌を思い浮かべる
「矢切の渡し」と言えば演歌です。
「つれて逃げてよ・・・」と願う女性。それに「ついておいでよ」と力強く応える男性。親に反対された相思相愛の男女が見知らぬ世界へ逃避行をする情景が描かれます。
- 1番・夕ぐれの雨が降る矢切の渡し
- 2番・北風が泣いて吹く矢切の渡し
- 3番。揺れながら艪が咽ぶ 矢切 の 渡し
何度も出てくる「やぎり」という言葉からは強いイメージが浮かびます。矢。切れる。音声が「イ」で少しかん高くて強い音です。
時代は江戸末期か、明治初期なのでしょうか。日本橋あたりから逃避行をして来た男女が、今までの生活と縁を切る儀式の場所。「矢切の渡し」の歌詞からはそんなイメージが浮かびます。
矢切の渡し (曲)・楽曲の製作過程-Wikipedia には、演歌「矢切の渡し」を作ることになったエピソードが紹介されています。
1970年代半ば頃、テレビの紀行番組で「矢切の渡し」がなくなりそうだという事が放送されます。それを見ていた作詞家の石本美由起さんと作曲家の船村徹さんが「渡しがなくなるなら、作品に残そう」と意気投合してこの曲を作ったとあります。
ちあきなおみさんと細川たかしさんが歌ってヒット。演歌『矢切の渡し』は残り、今も「矢切の渡し」の手漕ぎ船は運行されています。
今も「矢切の渡し」が残っているのは演歌『矢切の渡し』の影響が大きいのでしょう。日本人が全員同じ歌を聞いていました。演歌の力が今より大きかった時代です。
*1:ただし、寅さんが「矢切の渡し」の船に乗ったのは5作品。
第40作の「サラダ記念日」には佐藤蛾次郎さん演ずる源公が渡しに乗っているそうです。