目次
なんで「サルトル、カミュと現代」を履修するの?
柄にもなく小難しそうな授業を履修することにしました。
大体において、サルトル、カミュなんて読んでいるの?
はい、サルトルもカミュも読んだことがありません。外国の文学は人の名前が覚えにくかったり、翻訳の文章が馴染みにくかったりで苦手なのです。
上京したころ、同じ職場に山形出身の男性がおりました。両親は亡くなられて学資がないことから、早稲田大学を中退したとの話で、お墓もなくて、骨壺を押し入れに入れいて、転居するたびに持ち運んでいるという人でした。
その人が「小説を書きたい」と言ってました。
「どんな小説が書きたいんですか?」
「実存主義の小説」
「実存主義の小説って、どんな小説ですか?」
実存主義を簡単に説明するのが難しいのか、彼は説明してくれませんでした。
何度か「実存主義」という言葉を思い出して、検索したことはあったのですが、よく分かりませんでした。
今回はこんな言葉を見つけ、なるほどこんなことかと思いました。
分かりやすい例えとして スプーンは食べ物をすくう為の物という目的(本質)が先にあり、そこから人の手によって作られる(実存)することによって存在する。 しかし人間は実存が先にあり、本質は自分の手で選びとっていかなければならないとした思想である。
(Wikipedia「実存主義・概要」より)
人間は何のために生きるのか、目的が分からないで生まれてきます。生きる目的は自分で見つけなければならないのですが、そのことについてのことのようです。
実存主義とは何か、それを知ることが出来るかもしれない。そんな期待から履修することにしました。
サルトルってどんな人?
面接授業「サルトル、カミュと現代」の1日目の授業はこんな感じです。
- 第1回 <吐き気>とは何か? - 『嘔吐』(1)
- 第2回 <物語>という問題 - 『嘔吐』(2)
- 第3回 サルトル対プルースト - 文学とは何か?
- 第4回 サルトル対ハイデガー - <ヒューマニズム>を廻って
サルトルって名前を聞いたことはあるけれど、どんな人なのでしょう。
Wikipedia にはこんなふうに書かれています。
サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(のちに出版される『実存主義とは何か』のもととなった講演)において、「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と言い切っている。
(Wikipedia「ジャン=ポール・サルトル/思想」より)
「人間は自由という刑に処せられている」という言葉は聞いたことがあります。
自由なのはいいけれど、どう生きたら良いのか分からない。それを「刑に処せられている」と言ったんですね。見事な比喩です。
「実存は本質に先立つ」とは、人間は目的もなく生まれてくる、そのことでしょう。
サルトルの妻シモーヌ・ド・ボーヴォワールはこの考えを基に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を残した。
(Wikipedia「実存は本質に先立つ」より)
「実存主義」の解説なら、この本が分かりやすそうです。
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)
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さて、「実存主義」をベースにサルトルが書いたという「嘔吐」とは、どんな小説なのでしょう。
ル・アーヴルに似た街で、ある絶望した研究者が事物や境遇によって彼自身の自我を定義する能力や理性的・精神的な自由が侵されているという確信に至り、吐き気を感じさせられる様子が描かれている。
(Wikipedia「嘔吐 (小説)」より)
うーむ。面白いのでしょうか、読むと得られるものがあるのでしょうか・・・。
小説「異邦人」は何が面白いの?
2日目の授業はこんな感じです。
- 第5回 <異邦人>とは何者か?
- 第6回 『異邦人』対『転落』
- 第7回 <転落>とは何か? - <近代>批判と<ポストモダン>という問題
- 第8回 <物語>と<歴史> - 「大きな物語」の終焉?
授業を聞いても分からないんじゃないか、そんな気もします。
まず、カミュってどんな人なのでしょう?
Wikipedia 「アルベール・カミュ」 にこんな記述がありました。
タレントのセイン・カミュは従孫(兄の孫)にあたる。
びっくりです。あのバラエティ番組「さんまのからくりTV」で「KARAKURI FUNNIEST ENGLISH」をやっていたセイン・カミュさんがノーベル文学賞作家の兄の孫だったんですね。セインさんについては深入りしませんので、ボビー・オロゴンさんとか、興味のある人はリンクをたどって見てください。
フランス人のノーベル賞作家に少しだけ親しみが湧きました(笑)。
(Wikipedia「アルベール・カミュ」より)
カミュはどんな作品を書いたのでしょう。カミュといえば「異邦人」と言うことくらいは聞いたことがあります。
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「異邦人」は読んでいないのですが、アマゾンの「『異邦人』内容紹介」を読むと、ただの人格が破綻した突飛な行動をする男の話のようにも思えます。
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。
アマゾンには多くのレビューがあり、ネットにも感想があります。そのいくつかを読んでみました。その中で、一番作品の本質をついているのではないか、と思ったのがこの書評です。(自分が読んでいないのに言うのも変ですが)
しかし、ムルソーが(つまりカミュが)最も強く拒絶したのは、「人間の存在になんらかの意味を付与しようとすること」であり、同時に「意味にしがみつく人間」であった。
(略)
大多数の人間は、自分がやっていることになんらかの意味を見出さないと生きていけない。意味を見出し、なければ自分で勝手に作り出すのが人間だと言える。ところが、カミュはそうした意味すべてを全否定する。それが不条理というものだ。
実存主義と同じという気もしますが、違うんでしょうか・・・。
カミュはその思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。
(Wikipedia「アルベール・カミュ:思想」より)
具体的なことは面接授業で話されるのかも知れません。
「異邦人」について検索していたら、坂口安吾がベタ褒めをしている文章を見つけました。
この作品にあふれている善意の大いさとたくましさは、この作者が今後何を書かなくとも、この一作で、ながく人の心に生き残りうる生命をもつことを示しているようだ。こんなに幼くて、狂いなく安定した善意というものは、実人生にはないかも知れないが、文学には有りうるし、そしてそのために人間にとって文学が必要なものでもある。しかし、こんなに幼くて安定した善意というものは、たぶんいままでの日本には、書かれたことがなかったように思う。(青空文庫「坂口安吾 『異邦人』に就て」より)
「こんなに幼くて、狂いなく安定した善意」と言っています。
自分の人生に意味を見出さないと生きていけないのだけれども、カミュは意味を否定する。それが「こんなに幼くて、狂いなく安定した善意」なのでしょうか。
予習して分かったこと
実存主義の小説を書きたいと言った男性は、私が映画に興味があると分かると、「黒沢明監督の『生きる』のような映画に興味があるのか」と言いました。
あれから30年くらい経ちました。
彼の話に出てきた「実存主義」と黒沢明監督の『生きる』は関係がなんとなく分かったような気がします。
黒沢明監督の「生きる」は、平凡に生きてきた公務員が主人公の映画です。主人公はガンに冒されたことを知り、残された人生をどう生きるか、それを描いた映画です。
「人間は実存が先にあり、本質は自分の手で選びとっていかなければならないとした思想」。
志村喬さん演ずる渡邊勘治は公務員として生きてきましたが、生きることの本質が分からなかった。それがガンを告知されて余命がいくばくもないと知って、生きることの本質が分かるという映画です。
彼が言っていた「実存主義」はこんなことだったのではないか。
本番の授業が楽しみです。