シロッコ手習鑑

どうすれば登校拒否や引きこもりをサポートできるのか。高卒シニアなのに放送大学で心理学を学び始めました

なぜ、こんな住宅地の中に廃墟があるの? 「検見川送信所」

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JR総武線・新検見川駅から南へ500mほど進むと、左手に小豆色に舗装された歩道見えてきます。その歩道を入った200mほど先に忽然と廃墟が現れます。検見川送信所です。

こんな住宅地なのに、どうして廃墟があるの? 誰もがそう思うでしょう。

過日、その「検見川送信所」の写真を撮ってきました。今回は、廃墟の写真を紹介しながら、送信所が開局してから閉局するまでの歴史を調べてみます。

目次

住宅地の中に忽然とある廃墟

 

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新検見川駅から東大グラウンド通りを南へ500mほど進んだあたりの左手。この歩道の奥の右側、上の写真で言えば電柱のところに「検見川送信所」があります。

歩道を入っていくと廃墟が見えてきます。

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下の写真は、歩道から見た「検見川送信所」。

この送信所が出来たのは1926年。91年前のことです。

ここでは日本最先端の電波に関する研究が行われていました。

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現在、窓は鉄板でふさがれ内部が保護されています。鉄板が酸化のダメージを受けて茶褐色に錆びています。

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一部コンクリートが崩れて鉄筋がむき出しになっている。

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開局当初の写真」をみると、この部分は独特の形をした入り口であったことが分かります。

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給水塔には葛が覆い始めていました。

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送信所は1979年(昭和54年)に閉局。

「夏草や兵どもが夢の跡」。

現在では、周りには子どもの背丈ほどもある草が生い茂り、すっかり廃墟らしい雰囲気になってしまいました。

検見川送信所付近は畑だらけだった

現在ではすっかり東京へ通勤する人の住宅地になっています。なぜ、こんな住宅地にの中に忽然と廃墟があるんでしょう?

「検見川送信所」が出来た当時は住宅地ではありませんでした。国道14号より南は海でした。JR新検見川駅もなく、付近は畑だらけ。海辺の広い農地だったのです。

検見川付近の開発状況を年表にしてみました。

  • 1894年 総武鉄道 市川駅 - 佐倉駅間開業
  • 1899年 稲毛駅開業
  • 1921年 京成千葉線、検見川駅、京成稲毛駅開業
  • 1926年 東京無線局検見川送信所として開局
  • 1951年 新検見川駅開業
  • 1980年 幕張地区埋め立て工事完了

  • 1986年 京葉線・海浜幕張駅、検見川浜駅開業

検見川付近は開発されて、総武線、京成千葉線、京葉線が並んで走るようになりました。その結果、この3線には紛らわしい駅名が出来てしまって、「総武線・新検見川」に来るつもりが、間違えて「京葉線・検見川浜」に来てしまったと親戚もいます。

こんなに駅名が似ているんです。

  • 総武線
    幕張駅、新検見川駅、稲毛駅
  • 京成千葉線
    幕張駅(幕張駅として開業。京成幕張駅に改称したが旅客向け案内では「京成」を省略)
    検見川駅、稲毛駅(稲毛駅として開業。京成稲毛駅に改称したが旅客向け案内では「京成」を省略)
  • 京葉線
    海浜幕張駅、検見川浜駅、稲毛海岸駅

行きつけの床屋のおばちゃんから、新検見川駅付近の土地について、面白い話を聞いたことがあります。

京葉道路の北のあたりに、古くから住んでいる、農家の人たちの集落があります。そこに住んでいた地主は、農地改革のとき、安く農地を政府に売り渡さなければなりませんでした。そこで、地主は海に近い不便な土地を手放すことにします。

時代は変わって、駅が出来て、埋め立てが行われ、辺鄙な検見川付近は住宅地になってしまいました。

小作の人が買い取った土地は高騰し、土地の価値は逆転してしまった。

そんな話をしていました。

どんな送信所だったのか

検見川送信所が開局した当時のことが「検見川送信所を知る会・沿革」に紹介されています。

開局当初に導入された設備は、まず英国製の50kw送信機(アンテナ出力は15kw)があげられます。周波数は36.5kHzで、この1台で第一発信室を占めるほどの大きさであり、1959年(昭和24年)まで使われました。

普通のAMラジオ受信機械が受信できる周波数は530~1605kHz。検見川送信所にあったのは波長が10kmもある長波と呼ばれる電波の送信機です。このころはまだ音声によるものでなく、モールス符号による通信でした。「この1台で第一発信室を占めるほどの大きさ」とあり、使われた真空管はかなり巨大なものだったと思われます。

その後の調査研究や実験については「検見川送信所で行った調査研究と実用化技術」に詳しく掲載されています。

  • 短波送信機の実用化
  • 水晶発振機の実用化
  • ビームアンテナの開発
  • 無線電話通信
  • 天気図を(現在のファクシミリのように)そのまま送る実験
  • SSB多重電信電話の実験

いろんな通信技術の実験が行われていたのが分かります

水晶発振機、ビームアンテナ、SSB・・・懐かしい言葉です。

1970年代、私はアマチュア無線をやっていて、たくさんの地域の人と繋がることが出来ました。技術を知る楽しさもありましたが、定期的にオフ会もやっていて、今のSNSのような楽しさもありました。

 

そんな私にとって、この「検見川送信所」は感慨深いものがあります。

なぜ、 閉局してしまったの?

時代の流れで消えて行った無線施設を知っています。

  • 憶・原町無線塔 - Wikipedia
    出身地である福島県旧・原町市にあった無線塔です。国道6号線を北上して、松川浦へ潮干狩りに行く途中に大きなコンクリートの塔がありましたが、老朽化が激しく解体されました。
  • 海軍無線電信所船橋送信所 - Wikipedia
    Googleマップで自由に地図が見られるようになったころ、中山競馬場のとなりに丸い地形があるのを見つけました。最初はパリの凱旋門や田園調布駅前のようなオシャレな地形かと思ったのですが、よくみると「船橋無線塔記念碑」とあります。

    ここも役目を終えて解体されています。
    ちなみに、この円の右側がくびれています。どうしてでしょう?
    ここにお宮があるから。行ってみるとよく分かります。 

検見川送信所はどうだったのでしょうか。「検見川送信所について・沿革<2>」には次のように書かれています。

また、昭和30年代頃からアンテナ下の敷地に民家が建ちはじめ、住民とのトラブルが多くなりました。送信所内の職場で働いていた職員たちは「このままでは送信所が存在できなくなる。短波通信は他の通信手段が発展しても、国の施策として確保しておく必要がある。周囲の土地を電電公社(現在のNTT)が買い取り、住民に開かれた公共の広場として開放すれば、地域住民と共存できる」と主張し、電電公社に要求しましたが実現しませんでした。

新しい通信手段が発展したことが閉局の大きな原因のようです。

現在使われている通信の最先端と言えば、光ファイバーによるインターネットでしょう。それを巨大なデータセンターの計算機が通信を支えています。

 技術が発展して新しい通信方法や計算機が生まれたとき、巨大なデータセンターも廃墟になってしまうのかも知れません。