wikipedia「愛新覚羅溥傑」より
目次
愛新覚羅ってそんなに有名なの?
某大学医学部付属病院に「愛新覚羅」という珍しい姓の女医さんがいて話題になりました。
「愛新覚羅」は中国皇帝の家系、「ラストエンペラー」という映画にもなりました。そのラストエンペラーの弟・愛新覚羅溥傑夫妻が住んでいた「千葉市ゆかりの家・いなげ」 が自宅の近くにあります。
満洲国皇帝の溥儀は、弟の溥傑を日本の皇族女子と結婚させたかった。
その結果政略として、愛新覚羅溥傑と公家の「嵯峨家」の「浩」が結婚することになった。
二人は、千葉市稲毛にある稲毛浅間神社の一角に新居に住みました。
溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたといいますから、ここから千葉の作草部にあった陸軍歩兵学校に通っていたものと思われます。
二人が住んでいたのは 1937(昭和12)年4月から9月までの半年。その家が「千葉市ゆかりの家」として公開されています。
愛新覚羅溥傑夫妻は稲毛浅間神社の隣に住んでいた
愛新覚羅溥傑夫妻が住んでいたのは国道14号沿いにある稲毛浅間神社の脇、元は神社の境内だったと思われる場所です。
稲毛浅間神社鳥居
電柱左の坂道を上ると「千葉市ゆかりの家・いなげ」が右手に見えてきます。
鳥居は海の中に立っていた
稲毛神社の入り口から東京湾の方向を見ると、国道14を挟んで鳥居があります。埋め立てられる前は14号より先は海でした。この鳥居は海の中に立っていたのです。
鳥居の向こうには富士山が見えたはずです。現在では、海はこの鳥居から2.7キロも先になってしまいました。
専用駐車場。3台駐車可能です。愛車を駐輪。
玄関側の様子。この門を入っていきます。右下の赤い塔が稲毛浅間神社の入り口です。
玄関を入ったところ。玄関を入ると係りの人が出てきましたので挨拶をしました。日曜でしたが訪れるは少なかったです。
玄関の右にはNHK「大地の子」の養父役をされた朱旭さんが訪れたときの写真が展示してありました。
記帳。
愛新覚羅溥傑の書
この書体がフォントになり、それがニュースになりました。『ラストエンペラーの弟、溥傑の書体がフォントで復活…商品名に「数奇な運命」しのぶ』
他にも何点か書や絵が展示してあります。
L字型南側棟・室内の様子。
L字型の南側棟から。
廊下。奥が玄関。
「満州国を挙げて慶祝」
活気があった当時の日本の雰囲気が伝わってくる写真です。
ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の日記と溥傑自伝。
「流転の王妃」。映画化されて昭和35年に公開されています。
平成15年にはテレビドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』が作られています。
埋め立てる前の稲毛海岸の様子。
神社の前は海だったのが分かります。義母はこのあたりに潮干狩りに来たことがあると話していました。
奥の棟から見た南側棟。
奥の洋間。新婚時代の写真が多数飾られていました。
洋間の窓から見えるのは「離れ」です。
離れ。茶室だったのでしょうか。
この左にはコンクリートの地下室・防空壕がありました。
離れ内部。
母屋全体の様子。
庭。庭からは稲毛浅間神社のふたつの鳥居が見えます。昔は、奥の鳥居は海の中にあり、遠くには富士山が見え、風情のある景色だったのでしょう。
愛新覚羅溥傑夫妻は政略結婚でしたが、とても仲が良かったと言われています。二人の子供が生まれましたが、長女の慧生は天城山でピストルで心中しています。
高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対に遭い[2]、1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学する。同じ学科の男子学生・大久保武道と交際をするが、母を始めとする家族には交際を打ち明けられる環境ではなかった[3]。1957年(昭和32年)12月4日の夜に入る頃、天城山で大久保の所持していたピストルで大久保と心中死したと推察されている。2人の遺体は12月10日に発見された(天城山心中)。(wikipedia:「愛新覚羅慧生」より)
溥傑夫妻の深い悲しみが想像できます。個人の意思とは関係なに時代に翻弄されてしまう人生。
ここに住んでいたときが一番しあわせだったでしょうね
某大学医学部付属病院の「愛新覚羅」さんって?
最初の話題です。
- 清朝の最後の皇帝、満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀には子どもはいません。
- 実弟・溥傑の長女はなくなっています。
- 次女は結婚して福永姓になっています 。
ですから、某大学医学部付属病院の「愛新覚羅」さんはもっと以前に枝分かれした清王朝の末裔かと思われます。その方が日本に来たと考えるのが妥当かと思います。
関連リンク
- 千葉市ゆかりの家・いなげ 千葉市サイトの紹介
- 歴史秘話ヒストリア NHK
- 千葉 稲毛 昔 鳥居 - Google 検索 昔の稲毛神社鳥居の写真