シロッコ手習鑑

高卒シニアが放送大学の心理と教育コースで学んでいます。人間と文化コースにも興味があります。学んだことを基に自分の考えを組み立てて伝えていきたい。

松岡洋右は悲劇の主人公に似ている・「『その時歴史が動いた』三国同盟締結・松岡洋右の誤算」

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 目次

なぜ、悲劇の主人公に似ていると思ったか

放送大学図書館の「NHK『その時歴史が動いた』 三国同盟締結・松岡洋右の誤算」を観ました。

『その時歴史が動いた』は、NHKが放送していた歴史情報番組です。

「三国同盟締結・松岡洋右の誤算」は、三国同盟を締結した1940年9月27日を「その時」として、そこに至るまでの状況を松岡洋右のドラマとして描いていました。

松岡洋右は山口県光市の廻船問屋の生まれ。11歳の時に廻船問屋が破産し、13歳の時に渡米。オレゴン大学法学部を卒業しています。番組では、人種差別のあった中、家族のように接してくれたベバレッジ夫人を紹介していました。ベバレッジ夫人の墓を建てるために渡米した松岡の紹介もしていました。

松岡洋右は多感な時期をアメリカで過ごしました。松岡は日本を愛していましたが、アメリカも愛していました。しかし、皮肉にもその二つの国が戦争に突入する大きな要因の「日独伊三国同盟」を結んでしまう。

まさにこれは悲劇だと思いました。悲劇とは何なのかを学んでいるところでもあり、悲劇とは何なのかを説明しながら、松岡洋右のドラマを考えてみます。

ある過失のせいで不幸へと転落する人

アリストテレスは『詩学』で、「悲劇」について次のように言っています。

おのれ自らの悪徳や邪悪のせいで不幸に転落するのではなしに、ある過失のせいで不幸へと転落する人であり、しかも筋の展開の初めにおいては、大いなる名声と幸福のうちにある人々の一員でなければならない。

(「舞台芸術の魅力」p242)

 松岡洋右は悲劇の主人公である「大いなる名声と幸福のうちにある人」と言って良いでしょう。

そして、「ある過失のせいで不幸へと転落する人」です。不幸に転落したのが自分自身だけでなく、愛する日本、アメリカが戦争状態になって殺し合いをするようになったのですから、「悲劇」以外のなにものでもないと思われます。

高尚厳粛な、私たちよりも「より良い」人物が不幸へと転落することで、「あわれみ(同情)とおそれ(恐怖)」を感じるのが悲劇です。

松岡洋右はそれにぴったり当てはまり、悲劇の主人公だと思いました。

松岡洋右の過失(ハマルティア)は何だったのか

アリストテレスは「悲劇」は真実を発見するための装置だと言います。

より良い人物が、大きな過失(ハマルティア)によって、幸福から不幸へと急転直下激変してゆく筋立ての物語だと言います。(「芸術の哲学」p61)

松岡洋右にとって、何がハマルティアだったのでしょうか。

  • 1931年(昭和6年)満洲事変が勃発、関東軍が満洲全土を占領します。
  • 1932年(昭和7年)満洲国建国。
  • 1932年(昭和7年)国際連盟はリットン調査団を派遣。
    満州の自治・日本権益の有効性を認めながらも、満州を国際管理下に置く事を提案する報告。
    10月、松岡は連盟総会に日本首席全権として出席。 
    12月8日、原稿なしで1時間20分の大演説。

「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」

政府から指示がありましたが、松岡はこう返信して反対しています。

「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず」

  • 1933年1月30日 ヒトラー政権誕生
  • 1933年2月24日 国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場

外交に失敗した松岡は失意のうちに帰国するのですが、熱狂的に歓迎されます。

「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は始めて、『我は我なり』という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」と報じられます。

新聞もいい加減だったというか、日本全体が酔っていたのでしょうか。

このときのことを義母に効きますと、「決議を拒否する演説がカッコ良くて、ほれぼれした」と言っておりました。 私がこの時代に生きていれば、軍国少年で、カッコイイと思っていたことでしょう。

ここから先、松岡は、アメリカに「力」で対抗しようとします。

日独伊の三国同盟を締結し、さらにソ連を加えて「四国同盟」にしようとしたのです。これが松岡のハマルティアです。

これは、松岡がアメリカに留学していた体験からの対米意識によるものだと思われます。

アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。

 (Wikipedia「松岡洋右・アメリカ留学」)

日独伊三国同盟から日本は戻れない道を進むことになります。

ドイツの快進撃が止まるという誤算

松岡が三国同盟を結ぼうとしていた頃のドイツは破竹の勢いがありました。

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(写真はWikipedia「日独伊三国同盟」より)

  • 1933年11月25日 日独防共協定締結。 
  • 1936年7月7日  盧溝橋事件。日中戦争が勃発。
    アメリカは中国を援助。日米関係は悪化していく。
  • 1937年11月25日 日独伊防共協定。
  • 1939年1月 日独伊三国同盟について70回の会議をしたが結論は出なかった。
  • 1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結。
  • 1939年9月1日 ドイツがポーランド侵攻。
  • 1939年9月3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。
  • 1939年9月17日 ソ連がポーランド東部に侵攻。
  • 1940年4月9日 ドイツがデンマーク・ノルウェーに侵攻。
  • 1940年5月 オランダがドイツに降伏、ベルギーがドイツに降伏。
  • 1940年6月14日 ドイツ軍がパリに無血入城、フランス政府がボルドーに移転。

松岡は外交に関しては全てを自分に一任するよう、近衛文麿と約束していました。

  • 1940年7月22日 松岡洋右が外務大臣に就任すると、親米派、親英派の外交官、職員40人を更迭します。

次はイギリスが落ちる。そうすればアメリカも手を出せなくなると見込んでいました。

  • 1940年9月19日 日独伊三国同盟を議題とする御前会議。
    原枢密院議長がアメリカの圧迫を強化を懸念するも、松岡洋右は問題なし。
  • 1940年9月27日 日独伊三国同盟調印。
    松岡洋右が挨拶で平和のための条約であること述べます。
    ドイツの外交官が日本語で「天皇陛下バンザイ・・・バンザイ・・・バンザイ」と三唱していたのが印象的でした。

ところがイギリスは意外にしぶとく、ドイツは勝てない。一方、アメリカはドイツは勝てないと判断していました。 

三国同盟はアメリカを仮想敵国とする条項を含んでいたため、強力なアメリカの経済制裁が始まります。

当時アメリカは第三条の自動参戦条項が松岡によって骨抜きにされていたことを知らず、対日警戒感をいっそう強めた。

(Wikipedia「日独伊三国同盟・締結直後の反応」より) 

Wikipedia を見ると、『その時歴史が動いた』で 「アメリカを仮想敵国とする条項を含んでいた」と言っていたのは、第三条の自動参戦条項のようです。

  • 1941年4月13日 - 日ソ中立条約成立
    日独伊三国同盟調印するとき、ドイツは日本とソ連を結ぶ誠実な仲介者になる用意があると言っていました。しかし、ドイツにソ連との仲介を依頼すると拒否されてしまいます。ドイツはソ連攻撃を決意していたのです。そこで松岡はソ連に乗り込み「日ソ中立条約成立」を締結することに成功します。
  • 1941年6月22日 - ドイツがソビエト連邦に対して攻撃開始

四国同盟の夢は破れました。松岡からすれば、あと一歩だったように見えますが、既に歯車は狂っていたのです。

  • 1941年7月16日 - 松岡洋右を更迭するため、第2次近衛内閣総辞職
  • 1941年7月18日 - 第3次近衛内閣成立

ドイツと手を組んだことによって、日本はアメリカからまともに相手にされなくなったと『その時歴史が動いた』では解説していました。

「日本はあのギャングの一員なんだね。仲良くしようと右手を差し出しても、後ろでは殴ろうとしている」と全く信用されなくなりました。

  • 1941年12月8日 - 日米開戦

1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという。

(Wikipedia「松岡洋右・外相離任後」より) 

松岡洋右のあわれさと美しさと

敗戦後、松岡洋右はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕されます。しかし、松岡洋右は結核を患っており、極東国際軍事裁判公判法廷には1度しか出席していません。

  • 1946年6月27日、東大病院で病死した。66歳。

山田風太郎は自著の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

(Wikipedia「松岡洋右・松岡に対する評価」より) 

「悲劇は真実を発見するための装置」だと言います(「芸術の哲学」)。

松岡洋右は、国際連盟の採決をもとに交渉したかった。けれども、政府の指示は国際連盟脱退もやむをえず。そこで、日独伊ソの四国同盟を締結して、アメリカに対抗しようとしました。 

科学的で正しい選択肢は他にあったのかも知れません。しかし、松岡洋右が四国同盟を夢見て奔走しました。そこには、人間が生きる真実、悲しさがあり、それは美しく光輝いていると思うのです。

「『その時歴史が動いた』三国同盟締結・松岡洋右の誤算」は悲劇を見ているような番組でした。