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そうだ、「加曾利貝塚」行こう!
11月21日は義母の93歳の誕生日。今まで、どこかに出かけて食事をしてきました。
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去年は浅草「神谷バー」の創業、「電気ブラン」、「ハチブドー酒」の神谷伝兵衛がワインを作った「牛久シャトー」へ。
ところが、予定していたレストランは貸し切りで食事ができず、昔飲んで美味しかったという「ハチブドー酒」は、「もう造っていない」と言われ、散々な目に会い、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
さて、今年はどうするか。
「養老渓谷へ紅葉を見に行きましょうか」
「言ったことあるけど、大したことないのよ」
「うーん・・・」
「海ほたる」、「竜宮城」・・・。
色々考えて、誕生日の前日に思いつきました。
義母は考古学的なものが大好きです。
テレビで、エジプトのピラミッドの話や発掘の話をしていれば、ワクワクしながら見ているんです。
「そうだ、加曾利貝塚へ行きませんか」
「そうしょましょ」との事で、今年は千葉市の「加曾利貝塚」に行くことにしました。
「加曾利貝塚」はどこにあるか
「加曾利貝塚」は千葉駅から方位・東北東、直線距離にして4.8kmのところにあります。千葉駅からモノレールで9番目、桜木駅で下車します。そこから約1キロ、歩いて15分くらい。
自宅からは車で30くらいだったでしょうか。
海から遠いのになぜ貝塚がある?
駐車場は上の地図で言うと、真ん中に鳥の頭のような図形がありますが、その突き出したような口ばしの先にあります。
モノレールで桜木駅から歩いてもここを目指します。
ここは海から直線距離で5キロくらい。なぜこんな遠くに「貝塚」があるのでしょう?
昔は、近くまで海があったのでしょうか。
加曽利貝塚博物館で案内をしていたボランティアの方に聞いてみました。この貝塚は約5000年前に作られたもの。そのころは現在の地形とほとんど変わりがなく、この地図の東にある都川の支流から海まで丸木舟で貝や魚を捕りに行っていたそうです。
なぜ、海の近くに住まなかったのか。
最初は海の近くに住んでいたかもしれないが、 災害などにあって、ここに住むようになったのではないかとのことです。
標高ワカールで標高を測定してみました。
標高ワカールで測定するとこんな値になりました。
- 貝塚のあたり: 標高約30m
- 東にある都川の支流: 標高約11.6m
地図を見ると、緑地の南に水路があります。そのあたりに水源があったのでしょうか。そこの 標高が約17.6m。
身体を洗ったり、水を汲んだり、標高差があると大変です。しかし、水辺との標高差がないと大雨で浸水すると困ります。いろんなことを考慮して、この場所に住んでいたのでしょう。快適な場所を選ぶのも大変そうです。
「貝塚」とは何か・北貝塚階層断面施設
入口にモニュメントのような看板があります。
入場は無料。地図でいうと鳥の口ばしの付け根のあたりにあるのが「北貝塚階層断面施設」、下の写真では木立の間から屋根の見える建物です。
特別許可がない限り、ここから先は車で入ることはできません。
「貝塚」とは何なのでしょうか。
- 塚 - Wikipedia
塚(つか、旧字体: 塚、英語: Mound)とはその周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや、小さな山や丘や古墳などである。
野球のMoundをイメージして、なるほどと納得しました。
曽利貝塚博物館の学芸員・佐藤洋さんは「ただのゴミ捨て場とは言い難い」と言ってます。
ウィキペディアによると、この「加曾利貝塚」は世界でも最大規模なのだそうです。
加曽利貝塚(かそりかいづか)は、千葉県千葉市若葉区桜木8丁目にある縄文時代の貝塚である。世界でも最大規模の貝塚であり、学史上でも著名な標式遺跡としても知られる。
「ウィキペディア「加曽利貝塚 」より」
佐藤洋さんのレポートにある「加曽利貝塚の全体図」を見ると、その大きさがわかります。地図にある円形道路内側にある帯状の円、道路を挟んだ南貝塚と巨大な貝塚があったのが分かります。
【北貝塚階層断面施設】
貝塚がどのようなものであるか分かりやすいように断面の一部を見ることができるようになっています。
ハマグリの殻がいっぱいありました。他にもイボキサゴ、マテガイ、アサリなど。
住居跡群観覧施設
地図の鳥の頭のような図形でいうと真ん中にある施設です。
竪穴式住居(たてあなしき)跡です。「縦穴・竪穴」は穴を掘ってそこに屋根をかぶせたものを言うそうですけれども、ここの住居のように穴が掘ってなくても「竪穴式」と呼ぶようです。
建て替える度にずれていったんですね。
(掲示してあった解説図)
現在も発掘中
博物館に向かう途中、中央を横切る道路のところで、発掘調査が行われていました。
縄文人の生活を知る資料がまだまだ多く眠っているかと思うと、ワクワクします。
加曾利貝塚博物館の展示から
【土偶】何に使ったのでしょう。子どもがママゴトをするのに、お人形さんを使います。遊び? 祈り? 縄文人に聞いてみたいところです。
【骨で作った銛(もり)、ヤス、釣り針】
頭が良くて器用に釣り針など作れる男は、きっとモテたに違いありません。石器しかない時代にこれだけのものを作るのは、とてもさ大変なこと。文字のない時代ですから、骨を使った道具の作り方が口頭で説明され、見よう見まねで伝承されたのでしょう。
【石器の矢じり】
あるとき、鋭く割れた石のかけらで、自分の手を切ってしまい、「イテ! あれ? これで手が切れるんだから、肉や野草が切れるんじゃね」と思い付いたのかもしれません。
【アワビの形をした土器】
器用な人がいたものです。アワビの形をした土器を作った人がいました。大きさからして、食べ物を入れて食事に使ったのでしょうか、お供えを入れてお祈りをしたのかもしれません。
ミメーシス。模倣こそが芸術の始まりと実感させてくれる作品です。
【磨製石器】
斧として使ったのでしょうか、包丁でしょうか。
【縄文土器】
焚火をすると、その跡に土が硬くなった部分があることに気づきます。それも、硬くなりやすい粘土と硬くならない土があることに気づく。
「粘土を形にして焼けば何かできるんじゃね?」と始まったのが土器でしょう。知らんけど。
縄文土器が発明されて何が便利になったか。
- 食料の調理
縄文土器のうち深鉢などには煮沸痕を有するものがあることから、食料を煮る(煮沸)ため、あるいは貯蔵するために用いられたと考えられる。
(Wikipedia 「縄文土器」より)
文字の発明、印刷の発明も偉大ですけれども、土器の発明は石器人の生活を大きく変えるものだったに違いありません。
「おい、縄文土器っていう便利なものを作る方法があるぜ!」(古代語で)
そんな感じで土器を作る方法が広まったのだと思います。
【大きい土器】
展示してある縄文土器を見て感じたのは、かなり大きい土器があるということ。
計ってこなかったことを後悔しているのですが、下の土器で、高さが70cmくらいあったのではないでしょうか。
水瓶?
今でも大きな磁器の壺を作るのは難しいこと。これだけ大きな土器を作るのは高度な技術があったに違いありません。
【割れた土器】
割れた土器に触ることができます。
子どものころの記憶では、実家近くに割れた土器や矢じりが出てくる畑がありました。遺跡として調査されることもなく消えてしまったのでしょうか。
最後に
義母の誕生日に「加曾利貝塚」へ行ってきました。
博物館で石器や土器を見たことはありますが、出土された貝塚でこれだけのものを見ると、縄文人の生活が思い浮かんで、尊敬や親しみが沸いてきます。
考古学大好きの義母も喜んでくれました。
夜は和食のレストランへ。
代金は曾孫がアルバイト代で払ってくれるというプレゼントもあって、大喜びでした。
花を渡そうと思ったのですが、先に渡すとレストランへ行かないとか面倒なことを言い出しそうです。
花は、今日あたり買ってこようかと。