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「農業は無理だ。学問の力で身を立てろ」
帰省した際に会津へ行きました。鶴ヶ城、飯盛山、裏磐梯・・・。
そして、猪苗代湖のほとりにある「野口英世記念館」では、展示されている英語論文に圧倒されました。
なぜ、野口英世は千円札の肖像になるほどの成功者になれたのでしょうか?
英世は農家の長男です。囲炉裏で大火傷をしたことから左手が開かなくなり、「農業は無理だ。学問の力で身を立てろ」と母に諭されます。大火傷をしなかったら、野口英世は農夫になっていたのかも知れません。
英世には並外れた才能があり、困難を切り開くエネルギーとノウハウがありました。そして、彼を支えた多くの人たち、これらが揃っていたから成功者になれたのです。
並外れた才能は周りの人を動かしてしまう
左手は手術により使えるようになり、医学の素晴らしさに感激して医者を志します。
19歳のときに上京。そのとき床柱に刻んだ「志を得ざれば 再び 此地を踏まず」という文字は決意の固さを表しています。
強い意志があっただけでは成功者になれません。彼には人並み外れた才能があったのです。
- 小学校の教頭・小林先生に学費を援助して貰い、高等小学校に入っている。
図抜けた才能だったのでしょう。純真で期待に応える子どもだったと想像できます。そうでなかったら学費を援助する訳がありません。 - 手術を受けた会陽医院で働きながら医師を目指します。英世が学びたかったのは最新の西洋医学。現在なら日本語の医学入門書があるでしょうが、当時は原書を読むしかありません。英語・ドイツ語・フランス語・ラテン語を学びます。その能力には驚きます。
「とにかく博士はずばぬけて頭が良かったそうです。一度辞書を見たら、すぐに覚えてしまい、もう一度見返す必要も無く、すぐにマスターしてしまったそうです」(内閣府:野口英世アフリカ賞: 博士が教えてくれたこと・八子弥寿男 野口英世記念館 館長)
- 北里柴三郎の研究所では語学の能力を買われ、外国図書係として外国論文の抄録(要点をぬき出して文章を短くまとめる)、さらに通訳をしたそうです。いかに語学能力が優れていたか想像できます。
- 野口英世記念会の「野口英世博士の生涯」には「国際予防委員会の一員として清国(今の中国)の牛荘に派遣され、防疫に従事しました。英語と中国語に長けていた英世は、残留を希望されるほど評価されました」とありますから、中国語も得意だったようです。
このように野口英世が並外れた才能才能があったのは間違いありません。中でも外国語の能力が印象に残りました。
困難を切り開くパワーとノウハウがすごい
英世は1歳半の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷をしてしまいました。握りこぶしのまま開かなくなった左手。それを高等小学校四年のときに「ぼくの左手」という作文を書いたことから人生が切り開かれていきます。(注:作文は3ページあります)
その後もいいろんな人から援助を受けて夢の実現へと向かっています。
- 小林栄先生の援助で高等小学校へ入学します。
- 作文を読んた仲間からの援助を受けて左手の手術を受けることができました。(英世の最初の写真:この手術の帰りに撮影しもの。立っているのが手術を受けた英世なのに驚きました。気遣いの達人だったようです)
- 小林先生等から大金を借りて上京し、医術開業試験の前期試験に合格。
- 高山高等歯科医学院(東京歯科大学)の講師・血脇守之助からドイツ語を学ぶ学費を得ています。
- 医師を志す女学生と婚約を取り付け、その婚約持参金でアメリカへ。
- いわき市出身の星一(ショートショート作家・星新一さんの父)も資金を提供していますね。
これらの人たちは、英世の才能に期待して資金を提供しました。しかし、何もしないのに資金が転がり込んでくるはずはありません。野口英世には圧倒的なアピール力、プレゼン力があり、そして、その期待に応える信頼があったからこそ資金が提供されたに違いありません。
また、坪内逍遥の小説に登場する「野々口精作」が名前が似ているのが嫌で改名しています。借金を傘ねて遊郭に出入りする人物が自分をモデルにしたと言われるのを心配したからです。戸籍名は簡単に変更できません。そこで同じ名前の人に近所の野口家へ養子に入ってもらい、「近くに同じ名前が二人いるのは紛らわしい」と主張したのですからその方法も強引です。
成功者はその道の能力が並はずれていることもありますが、困難に突き当たったときの人生を切り開く能力も並はずれています。私の記憶に残っているエピソードでは、ソフトバンク社長の孫正義さん、アナウンサー久米宏さんのアピール力、交渉力が凄いですね。成功者の特徴です。
- ソフトバンク社長の孫正義さんは、アメリカでの大学検定試験のときに、「日本語ならば必ず解ける」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出ます。最後は州知事と電話交渉して要求を実現して合格します。(wikipedia:大学検定試験の逸話)
- 久米宏さんは、難関のTBSアナウンサー試験に受かったけれども、「不可」があって大学を卒業できません。そこで、オールドパーを2本持って教授宅へ行き、「不可」から「不」の一文字を取ってもらうべくお願いして卒業します。(久米宏さんと「LIFE」の話を。 - ほぼ日刊イトイ新聞:公開終了)
狙ったチャンスは逃がさない
野口英世は千円札の肖像になっています。同じ千円札の肖像になった人に夏目漱石がいますが、英世と漱石では大きな違いがあります。漱石は文部省の命で英語教育法研究のためにイギリスへ留学していますが、野口英世は官費を受給していないのです。森鴎外も陸軍軍医としてドイツに官費留学していますね。英世はどうやって留学したのでしょうか?
コネを頼りに著名な研究者に近づいてチャンスを見つけ、自費で渡米しています。
- 英世は医師免許を取得すると上司に頼み込んで北里柴三郎の研究所にもぐりこみます。
- 英語が得意だったことから、来日したサイモン・フレクスナー博士の案内役を任され、英世は「留学したい」と伝え、しつこく聞いてとりあえず住所だけは教て貰ったようです。
- 英世はサイモン・フレクスナー博士に手紙を書き、博士を訪ねて渡米してしまいます。そして、私設助手をしながらヘビ毒の研究を手伝います。
- 実力をみとめられて大学の正規の助手へ。デンマーク国立血清研究所に留学。
- ロックフェラー医学研究所が設立されてフレクスナー博士が組織構成の責任者になると、英世も移籍します
- 参考:対決!歴史人物バトル・野口英世 VS シュバイツアー
記録に残っているのは結果として成功したものばかりです。このほかにも何度もチャンスの糸口を探し求めていたに違いありません。
まとめ
英世の物語は、囲炉裏で大火傷をし、「農業は無理だ。学問の力で身を立てろ」と母に諭されたことから始まります。
そして、英世が成功したのは、並外れた才能、困難を切り開くエネルギーとノウハウ、そして、彼を支えた多くの人たち、これらが揃っていたからです。
誰もが野口英世のようになれる訳ではありませんが、見習えるポイントがあります。それは「目標に向かう貪欲さ」。高齢になった今では、成功に目指して貪欲にあがいても駄目なのではないかと思うところもありますが、まだ何かしたいという希望はあります。
高度成長が終り、日本にはどんよりした停滞感が漂っています。そんな時に訪ねた野口英世記念館には刺激されるものがありました。
【19歳で上京するとき床柱に刻んだ決意文】