シロッコ手習鑑

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高卒シニアなのに臨床心理士になりたいと思い立って放送大学生になりました。

なぜ、日本は宗教教育をしないのに道徳があるのか? 新渡戸稲造「武士道」(1)

本の紹介

目次

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

 

 戦前教育の理想はどんなものだったのか

安保法案に反対する「SEALDs」の国会前デモに対して、「利己的個人主義」な主張だと述べたことから炎上してしまった衆議院議員の武藤貴也さん。彼のオフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある」を見ると興味深い記述があります。

他にも、非嫡出子の相続は嫡出子と平等にすべきではないという主張の「法の賢慮、平等主義に敗れたり」、「個人主義が国家主権を侵害する」など、私たちとはかなり違った価値観を持った人であるのがわかります。

そして、他にも「日本会議」というのがあり、自虐的な教科書記述の是正、愛国心などを盛り込んだ新教育基本法の制定、選択的夫婦別姓法案反対などの政策を進めていて、その思想には違和感があります。 

そこで考えるのは、武藤貴也さんや日本会議メンバーは、何をベースにしてそのような考えに至ったのかという疑問です。戦後教育で日本はダメになったかどうかを考えるには、戦前教育はどんなものだったのかを知る必要があります。

都合のよいことに、随分前に購入した新渡戸稲造の「武士道」が積ん読のままになっています。それを読めば「戦前教育の理想はどんなものだったのか」を少しは知ることが出来るのではないかと考えた読んでみました。

  • (注)新渡戸稲造は英文でBushido: The Soul of Japan」を書きました。以下に引用、言及するのは須知徳平による翻訳された「武士道」の文章です。

なぜ、新渡戸稲造は「武士道」を書いたのか

この本を書いたのは、新渡戸稲造が体調を崩してカリフォルニア州で療養していたときのことです。

10年前にベルギーの法学者から「日本では宗教を教育していないのにどうして道徳教育を授けることが出来るのか」と驚きをもって質問され、どう答えてよいか分からなかったという記述から始まります。

そして、妻のメアリーから日本の習慣、思想について「それはどのような理由で行われているのか」と質問責めに会ったことについて、その答えを考えていきます。そして、日本の封建制度及び武士道とは何であるのか、それを理解しなくては日本の道徳観念は封印された秘本のようになってしまうと書いています。

また、キリストの幕屋ホームページには「武士道」について次のように紹介しています。

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを、世界の人々に紹介したのです。

ペリー来航の50年ほど後のことですから、日本が未開の野蛮国と見られていたのは事実かと思います。その汚名を払しょくしたいという考えもあったに違いありません。

宗教教育がない自分たち日本人の価値観の基本はどこにあるのか?

新渡戸稲造は聖書のような経典のない日本人の道徳をシェークスピア、聖書、ニーチェ、マルクスなどを引用しながら、キリスト教をベースにした西洋の思想と比較し、日本の思想を論理的に分析、解説していきます。この「武士道」を書くことは彼にとって自分探しの旅のようなものだったに違いありません。

新渡戸稲造の日本の文化や思想を分析する力は抜群であり、書きあげた「武士道」は説得力の高いものでした。初版が刊行されるとたちまちベストセラーになっています。彼が目的とした日本の道徳観念の構成要素の解明、それを西洋の人たちに知ってもらうという願いは通じたのではないかと思われます。

武士道の淵源から考える戦後思想との違い

武士道とは、武士の道徳的な掟のことです。武士はこれを守り、行うことを教えられ、要求されてきました。成文法ではありませんから、聖書のような経典はありません。口伝え、格言などにより伝えられたものです。*1

「武士道・第2章 武士道の淵源」に武士道のおおもとが何であるの記述があります。

  1. 仏教は(常に心を安んじて)全てを運命にまかせるという平常の感覚を武士道に与えた。避けることができない運命に対しては冷静に服従する。
  2. 仏教が武士道に与えることができなかったものを、神道が豊かに充たしてくれた。

    (1)主君に対する忠節、(2)祖先に対する崇拝、(3)親に対する孝行がこれである。

    祖先に対する崇拝は皇室を共通の祖と考える。神道にはキリスト教の言う原罪はない。

  3.  孔子の教える道が、武士道の最も豊かな淵源であった・・・儒教ですね。 

武士道の淵源から考えて、戦後教育との違いをあげてみます。

  • 戦後教育の中心はアメリカの個人主義です。新渡戸稲造は個人主義はキリスト教がもたらしたと言っています。戦後教育を受けた私からすると「主君に対する忠節」を当たり前と理解するのは難しいことです。
  • 皇室を共通の先祖として崇拝すること。日本が一つの民族から出来ているのなら問題ないかも知れませんが、琉球王国、アイヌ民族もあります。帰化した人もいます。新しい時代には合わないと思う。
  • 孝行を特別な美徳とは考えなくなってきました。親が死んでしまったからでしょうか。以前は孝行や敬老は大事だと考えましたが、自分が親の年代になり、老いてきたからでしょうか。年長の人間だから人として価値があるとも思えません。

昔の卑怯者は受けるダメージが大きかった

「私には、守りたい日本がある」の武藤衆議院議員は「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」のなかで「いじめ」について次のように言います。

話は変わるが、今マスコミで毎日のように取り上げられている大津の「いじめ」問題も、根本的な原因は「日本精神」を失ってしまったことに由来するような気がする。

昔読んだ本の中に「いじめはなぜいけないか、それは『卑怯』(ひきょう)だからだ」と書いてあった。強い者が弱い物をいじめる行為は、ただただ「卑怯」だからダメなんだと。

しかし、「卑怯」だからダメなのは今も昔も同じではないですか? 卑怯の概念はなくなっていません。ですから、日本精神を取り戻したからと言って、「いじめ」がなくなるとは思えないのです。

たしかに、「第3章 義または正義」は、次のような書き出しから始まり、武士道が「卑怯」を最も嫌っていたのが分かります。

義は武士道の中でも最も厳しい教訓である。武士にとって卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはない。

そこで考えたいのは同じ「卑怯」と評価されることでも、現在とサムライの時代はダメージの度合が違うのではないかということです。

主君に仕えた武士が卑怯者と評価されることは、切実な問題だったでしょう。主君の一声で職を失うかも知れません。それに、侍の魂である刀をぶら下げていましたから、いつでも命のやり取りできる状態です。卑怯者の評価は身に危険も起こりやすかったと考えられます。

現在では、たとえ卑怯者と評価されて立場が不利になっても職場を変えることが出来ます。治安も維持され、武器の所有も禁止されていますから、少しくらい卑怯者と評価されても、身に危険を感じることはありませんよね。

「卑怯であるのはいけない」と教育する効果はあると思います。しかし、社会が豊かになって仕事が自由に選べ、治安がよくて安心できる状態の現在では、卑怯者と評価されることのデメリットは少なくなったと思うのです。

(続く)

 

sirocco.hatenablog.com

*1:Key:雑学事典 / 武士道」に武士道についてのまとめがあります。