シロッコの青空ぶろぐ

高卒シニアが低学歴コンプレックス脱出のため、放送大学の人間と文化コースで学んでいます。通信制大学で学ぼうとする人を応援したい。学んで成功する人が増えれば、私のやる気も燃えるはず。

信仰を捨てるのか信者の命を救うのか・・・マーティン・スコセッシ監督『沈黙‐サイレンス‐』

目次

ネタバレ注意!

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

なぜ、マーティン・スコセッシが『沈黙』を?

去年の夏ころからでしょうか、マーティン・スコセッシ監督『沈黙‐サイレンス‐』の予告が上映されるようになりました。それを見て思ったのは「なんで、マーティン・スコセッシ監督が日本の小説を映画化したんだろう」ということです。

マーティン・スコセッシと言えばハリウッドの巨匠。

ロバート・デ・ニーロが主演した『タクシードライバー』は名作として有名ですし、レオナルド・ディカプリオが主演した『ディパーテッド』はアカデミー賞作品賞を受賞しています。ポール・ニューマンとトム・クルーズが出演した『ハスラー2』、『アビエイター』も見たことがあります。

そんな監督が『沈黙』を映画化したというのですから、なんでなの?と思います。

『沈黙』は遠藤周作さんが隠れキリシタンを描いた小説です。予告を見ると日本の時代劇のようにも見えます。アメリカ人が日本を舞台にした映画を作るのは大変なことでしょう。それまでして、映画を作る理由は何なのか、不思議にも思えました。

その理由は公式サイトの「プロダクションノート・企画のなりたち」を見ると分かります。

企画のなりたち

1988年、ニューヨーク市で行われた『最後の誘惑』特別試写会で、監督のマーティン・スコセッシは大司教のポール・ムーアと知り合った。そのイベントでムーアは、監督に遠藤周作の小説「沈黙」をプレゼントした。

初めて「沈黙」を読んだスコセッシは大きな衝撃を受け、まるで彼個人に話しかけられたような気がした。「遠藤が本で提示したテーマは、私がとても若い時からずっと考えていたものです。私はこの年になっても、信仰や人間のありようについて考え、疑問を感じていますが、これらは遠藤の本が直接的に触れているテーマなんです」

(強調は引用者による)

Wikipedia「マーティン・スコセッシ」には「少年時代は、映画監督ではなくカトリックの司祭を目指していた」という記述もあります。

映画にしたいと思い立っても、良い脚本が出来上がらなかったり、情報の少ない日本のキャスティングやロケ、言葉の問題など、映像化するのに困難な問題が立ちふさがり、28年もかかってしまったようです。

映画でキリスト教がわかる

映画は簡単に言うと、弾圧されても信仰を貫こうとする人たちが描かれます。こんなに酷い状況なのに神は奇跡を起こす訳でもなく、ただ沈黙しているだけ。それでも神を信じる。信仰とは何なのかを問う映画です。

この映画には、いろんな信仰の度合いのキリスト教を信仰している人たちが登場します。

神を信じ切っている人たち

  • 塚本晋也 監督演ずる「モキチ」
    塚本監督がオーディションを受けに行ったとき、マーティン・スコセッシ監督はびっくりしたそうです。海で十字架にはりつけられて、ゆっくり苦しみながら殉教していく。そのとき、賛美歌を歌います。原作には賛美歌を歌うことが書いてあるのですが、シナリオにはなく、塚本監督の提案で復活しています。
  • 笈田ヨシ (イチゾウ)
    村の司祭役である「じいさま」。モキチと一緒に海で十字架にはりつけられて、ゆっくり苦しみながら殉教していく。
  • 小松菜奈 (洗礼名 モニカ)
    宣教師ガルペの目の前で、ムシロに巻かれて縛りつけられ海に落とされます。
  • ガルペ神父
    棄教すればモニカたち信者三人の命は助けてやると言われます。ガルペは棄教する訳にはいきません。モニカたちが海に落とされます。ガルペは「代りに自分を殺してくれ」と泳いで行き、殉教していきます。

神を信じて死んでいくのは美しいという視点で描かれ、力強く、感動的です。そういう姿には憧れもあります。

しかし、特別に信仰を持っていない私からすると、なぜ、そんなにも神を信じることが出来るのか、不思議にも思いました。

「なぜ、神は沈黙したままなのか」と疑いを持つ

セバスチャン・ロドリゴ神父。

神を信じているはずなのですが、自分達を守るために死んでいく信者達を見て、奇跡を起こさない神に対して苦悩します。ガルペも目の前で死んでいきました。それでも、なぜ、神は沈黙したままなのか・・・。

この映画のテーマです。原作のロドリゴ神父の手紙を読みますと、彼の神に対する怒りのようなものを感じます。

ロドリゴ神父は、拷問を受ける信徒を目の前にして、棄教します。

ところが、外見から見れば棄教したようでも、最後まで神を信じた人生を貫きます。

信仰を捨てようとしたり戻ったりと迷い続けている

窪塚洋介さん演ずる「キチジロー」。
家族と一緒に密告されたとき、自分ひとりが踏み絵を踏んで生き残った過去を持っています。踏み絵を踏んで、十字架にツバを吹きかけても、完全に棄教した訳ではありません。

原作の遠藤周作さんは「キチジローは私だ」と言っていたようです。

キリシタンを弾圧する人たち

浅野忠信さん演ずる「通辞」。

キネマ旬報のインタビュー記事を読みました。通辞は苦しみを与えながら友情も感じている。原作を読んだけれども、なぜ、それほどまで弾圧できるのか分からなくて、何通りもの役作りを考えたそうです。そして、通辞も棄教した人間だと考えると納得できたそうです。

イッセー尾形さん演ずる「井上筑後守」

堂々とした悪役ぶりでした。私には堂々とした立派な英語のように見えました。

徳川幕府の指示とは言え、こんなにも強く弾圧できる理由は何なのか、実感が湧いてきません。Wikipediaの「禁教令・幕府の諸政策」をみると、実際に踏み絵よって隠れキリシタンを判別し、「俵責め」や「穴吊るし」の拷問が実際に行われたようです。

心理学には有名な「ミルグラムの服従実験」というのがあります。これは閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものですが、特別な状況になるとそれを当たり前と考えてしまうのかも知れません。

キリスト教徒に嫌われる映画?

映画を見たときは見事な映画だと思いました。『ラ・ラ・ランド』と『沈黙ーサイレンス』の一騎打ちと言っているサイトもあり、そうなのかとも考えました。

しかし、アカデミー賞の結果は「撮影賞」のノミネートされただけでした。

日本人の英語が拙くて感動を与えられなかったのでしょうか。

この記事は、映画を気に入らなかった批評家も含め、ほぼ全員が、イッセー尾形さんの演技のすばらしさに言及していると言っています。

『沈黙‐サイレンス‐』について、検索しているうちにこんなサイトを見つけました。

本映画はキリシタン弾圧を題材にしているだけに、登場人物のほとんどが死ぬ。そのときにBGMは流れず、効果音もない。しかも火葬するまで描かれる。キリスト教徒は「復活」に備えるために土葬するのが一般的だが、江戸幕府はそれすらも許さなかった。
このような映画を見せられては気が滅入る人が大半ではないか。「救いがない」ことがテーマであるために、その展開にスリルを求めることはできない。キリシタンの殉教のみじめさを痛感させられるだけである。

私は「シン・ゴジラ」の会議シーンがつまらなくて途中で映画館を出ようと思ったのですが、皆さんの評価は良かったようです。「シンドラーのリスト」で淡々とユダヤを殺すナチスを見て、リアルさを感じなくて見るのをやめてしまったこともあります。

人によって感じ方は互います。キリシタンの殉教を惨めと感じたか、美しいと感じたか、その差は大きいのです。

さらに読み進めますと、「ノーベル文学賞に至らなかった原作小説」として、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われたことが書いてあります。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。 (Wikipedia「遠藤周作」より)

そうだったのか・・・。 キリスト教徒でないから気が付きませんでしたが、「沈黙」はキリスト教徒からは嫌われる可能性があるのです。

三浦朱門さんが、正統な考え方ではないと言っていますね。

もうひとつ。弘前大学の学長だった吉田豊さんの講演に遠藤周作さんについての解説を見つけました。

あれはキリスト教会 でも大きい反響、というよりは反論が出て、教会では禁書にもなったのです。そのころの遠藤周作は世界的にも有名になって、ノーベル文学賞受賞がほとんど決 まっていたのです。ところが、キリスト教会の反対などもあってか、受賞されなかった。ニューヨークタイムズなど米紙は「次のノーベル賞は遠藤周作」と書い ていたのですから、私はすっかり受賞するものと、思っていましたが、大変、残念なことでありました。

(略)

聖書の中では、イエス・キリストは多くの奇跡を起こしています。波を鎮めたり、一つのパンで5千人に分け与えたとか、目の見えない人を見えるようにした―とか。しかし、これらの奇跡のことは『イエスの生涯』には一切な い、そういう「強いイエス・キリスト」を書かなかった。というよりも、遠藤周作は丹念に史実を調べた上で、「事実」として、そのようなことはなかったと確 信できたのでしょう。
そして、書いたのは「弱い、無力な、イエス」像。奇跡を起こすような「強いイエ ス」ではない、いつも病弱な人、地位のない、弱い人に優しいイエス。つまり、奇跡とか、力よりも「愛」が大切と言っているわけで、これを守り、これに従う ことによって「真実」、「信仰」を見つけたい、というのが、遠藤周作の思想ではなかったかと思います。
(「吉田豊・元弘前大学学長 仙台で公開講演」より。強調は引用者)

キリスト教の人に嫌われる弱いキリストの映画だったから嫌われ、アカデミー賞では撮影賞にノミネートされただけだったのかも知れません。 

関連リンク

キネマ旬報 2017年2月上旬号 No.1738

キネマ旬報 2017年2月上旬号 No.1738