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高倉健さんと言えば「ヤクザ映画」
高倉健さんの出演した映画はどんな役名でも、「高倉健」というキャラクターでした。そう感じる原因は、あまりにも多くの「ヤクザ映画」に出演したことにあります。
1963年、32歳の高倉健さんは、鶴田浩二さん主演の「人生劇場 飛車角」に出演します。そして、それをきっかけに「ヤクザ映画」シリーズに主演するようになります。
- 日本侠客伝シリーズ・・・11本
- 網走番外地シリーズ・・・18本
- 昭和残侠伝シリーズ・・・9本
その他にも、藤純子さん主演の「緋牡丹博徒」シリーズの7本に出演、さらに鶴田浩二さん主演のものなど、東映はヤクザ映画を作りまくり、それに出演していたのです。
しかも、高倉健さん主演のヤクザ映画は、大ヒットを続けます。ベストテンのうち4本が高倉健さん主演のヤクザ映画という年もあったくらいです。
次に「年度別映画興行成績 - Wikipedia」*1を参考に、ベストテンのうち何本が高倉健さん主演のヤクザ映画だったのかを示します。
- 1965年・・・4本
- 1966年・・・3本
- 1967年・・・2本(うち、1本は『あゝ同期の桜』)
- 1968年・・・3本(うち、2本は鶴田浩二さん主演)
- 1969年・・・2本
- 1970年・・・2本
- 1971年・・・4本
- 1972年・・・3本
- 1973年・・・2本(うち、1本は『ゴルゴ13』)
- 1974年・・・1本(2本立)
ベストテンに4本入ったのが2回、3本入ったのが3回、2本入ったのが4回と圧倒的な人気だったのです。
1976年に高倉健さんは東映を退社しています。
微妙に繋がる高倉健さんのキャラクター
高倉健さんは「ヤクザ映画」以外の映画に出演するようになります。
- 『新幹線大爆破』
中小企業の経営に失敗した犯人役(東映退社前)。
- 『君よ憤怒の河を渉れ』
法を犯しまくりながら、巨大な悪に立ち向かう検事(東映退社後)。
- 『八甲田山』
理想的な指揮官を演じています(東映退社後)。
兵隊が雪の中で死んでいくだけの映画はなぜヒットしたのか・高倉健主演『八甲田山』(1977年) - シロッコ手習鑑
しかし、高倉健さんと言えば「ヤクザ映画」というように、あまりにもヤクザのイメージが強く、その後の役にも仁侠映画で演じたイメージが引き継がれていくことになります。
- 『 幸福の黄色いハンカチ』
殺人の刑期を終えて出所した元炭鉱夫。もし、まだ待っていてくれるなら、 黄色いハンカチを掲げてくれ、と妻に手紙を出す。
- 『冬の華』
3歳の女児のいるヤクザを殺してしまった健さんは、足長おじさんとなって仕送りをしていた。健さんはヤクザから足を洗おうとするが・・・。
- 『動乱』
純真でストイック過ぎる青年将校。
娼婦として売られていく脱走兵の姉のために金を準備し、一緒に暮らすことになるが抱くことはない。吉永小百合さんに「この金で私を買ってください」と言われる。 - 『遙かなる山の呼び声』
嵐の夜。誤って人を殺してしまい逃げている健さんが、夫をなくした倍賞千恵子さんが営む牧場へ一晩泊めてくれと現れる。
ストイックな健さんは子どもを可愛がり、打ち解ける。しかし、・・・。
『 幸福の黄色いハンカチ』より前のストーリーとしても考えられる。 - 『夜叉』
ヤクザから足を洗い若狭湾で漁師をしている男。背中には「夜叉」の刺青。
ヤクザのイメージはなくなりますが、職業が『夜叉』と同じ漁師の映画が二本あります。
- 『ホタル』
戦死した特攻隊員の婚約者と結婚した特攻隊の生き残りの健さん。
職業は漁師。スーツを着たサラリーマンは似合わない。
若い漁師たちに「エンジンの調子が悪いから見てくれ」と言われ、エンジン音を聞いただけで整備すべき点を指摘するシーンがある。これは『海へ 〜See you〜』で凄腕メカニックのイメージを引き継いだもの。 - 『単騎、千里を走る。』
親として愛情を注いでやれなかった民俗学者の息子が余命少ないと聞き、 息子が研究していた中国仮面劇「単騎、千里を走る。」を一人撮影に行く。
その旅は息子への懺悔でもあった。これも漁師。
それと、武田鉄矢さん主演の『刑事物語』に『駅 STATION』で演じた「三上英次」という役名そのままで出演もしています。
映画は一本でストーリーが完結します。
しかし、高倉健さんの場合は、こんなふうに「高倉健」というキャラクター微妙に繋がり続けているのです。
自分の胸がスパークする映画だけに出演した健さん
東映時代は1年に10本以上撮影し、そのうちベストテンに4本も入るという人気の高倉健さんでしたが、1976年に東映を退社してからは、出演する映画が極端に少なくなります。そのあたりのことを降籏康男監督がこう話しています
独立後の健さんは、プロデューサーが新しい企画を提案しても簡単には応じませんでした。 どんな映画になるかが決まるまでに一年、それから最初の脚本を渡して修正を加え、最終的なOKが出るまでにまた二年も三年もかかるといった具合です。
『永久保存版 高倉健 1956~2014』「独占インタビュー・降籏康男 健さんと生きた57年」p61
降籏監督は、「健さんは自分の胸のうちでスパークするものを大切にした方です」と言います。
この記事で、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが、山田洋二監督に「『男はつらいよ』を健さんでやられては」と提案した話を紹介しました。
頑として受け入れない健さんが目に浮かぶようです。
東映を退社してから36年、その間に22本の映画に出演しました。
高倉健さんは「自分の胸のうちでスパークする」映画を求め、「高倉健」というキャラクターを完成させていったのです。
*1:1970年~1973年は正確な数字が発表されていない。邦画配給会社別の好稼働番組から推測