目次
戯曲というものは誰もが書けるものだ
この本は、戯曲を書いて、演劇を創るためのハウツー本です。
平田オリザさんは、「まえがき」で「戯曲というものは誰もが書けるものだと思っているし、誰もが書いていいものだと思っている」と言います。
戯曲は誰もが書け、誰もが演劇を創ることができるものなのでしょうか?
もちろん、戯曲をかけるようになればいいに越したことはありません。しかし、ネットで創作といえば小説が主で戯曲を発表している人はいません。
戯曲は小説よりも、映画のシナリオよりも、難しいと考えていました。
地の文で説明できず、舞台が固定されて動きません。いろんな映像を組み合わせて表現することもできません。それを、戯曲は誰もが書けるというのです。
平田オリザさんはどんなハウツーを書いたか。
目次は以下のような感じです。
これは相当略してあって、現実には「1リアルな台詞とは何か」 だったら、さらに「遠いイメージから入る・・・リアルとは何か・・・論議に入る前に」と、さらに細かい見出しがりあります。
まえがき
第一章 「演劇のリアル」と「現実のリアル」
1リアルな台詞とは何か
2テーマについて
第二章 戯曲を書く前にーー場所・背景・問題ーー
1演劇の起こる場所
2背景を考える
3問題を考える
第三章 対話を生むためにーー登場人物・プロット・エピソード・セリフーー
1登場人物を考える
2プロットを考える
3エピソードを考える
4台詞を書く
第四章 俳優は考えるコマであるーー戯曲・演出・俳優の関係ーー
1コンテクスト
2演出家と俳優の関係
3九〇年代に生まれた新しい演劇の特徴
第五章 「参加する演劇」に向かって
1ふたたびリアルとは何か
2参加する演劇
あとがき
第一章から第三章までが「戯曲を書く方法論」、第四章、第五章「演劇を創る方法論」です。
「戯曲を書く方法論」は興味深くよみました。「演劇を創る方法論」は蚊帳の外というか、実感として理解の程度が低かったように思います。これは役者としても、演出としても、演劇を創るのに参加したことがないというのが大きな原因のようです。
私が興味深かったのは次の三点です。
- 演劇の起こる場所
- 背景を考える
- 登場人物を考える
これがうまく行けば、私でも戯曲を書けるかも知れないと思いました。
一部を紹介してみます。
演劇の起こる場所
演劇はどんな場所で起こるのか。
演劇は、映画のように瞬時に場面を切り替えることができません。同じ舞台で客席からの視覚も同じ、ただ登場人物が出入りするだけです。この本では一幕劇を前提に考えていますから、その場所でドラマが始まり、終ります。
場所の設定に関しては、特に初心者向けの講座では、「戯曲を書きやすい空間設定」ということを考えていく。簡単に言えば、人と人とが出会って、話して、しかもその話が面白くなる場所ということだ。(P46)
プライベート空間はNG。
登場人物が夫婦で、家庭にいればお互い知っていることは話しません。問題が観客に問題が伝わりにくい。
パプリックな空間はNG。道路、公園、駅・・・こういう場所は人が通り過ぎるだけだから、ドラマになりにくい。
そこで出てくるのが「セミパブリックな空間」です。
セミパブリックな空間とは、物語を構成する主要な一群、例えば主要な核になる一群がそこにいて、そのいわば「内部」の人々に対して「外部」の人々が出入り自由であるということが前提になる。(p48)
現実の戯曲でセミパブリックはどう使われているのでしょうか。それで思い出したのが、井上 ひさしさんの「箱根強羅ホテル」です。
芝居を観たことはないのですが、どんな舞台なのか解説で読んだことがあります。
第二次世界大戦の末期。大使館は箱根に疎開していました。「箱根強羅ホテル」にはソ連の大使館が疎開していました。
ソ連に終戦を仲裁して欲しい日本は、広田弘毅元首相が隣の星新一さんのお父さん所有別荘に宿をとり、接触を試みるという話です。
ホテルのロビーだったら、いろんな人物が登場しても不思議でありません。
陸軍、海軍、外務省――入り乱れての大混乱。
敗戦濃厚な昭和20年(1945年)5月。玉砕に突き進む狂気と国体の護持のみを狙う狂気とのぶつかり合い。次々と繰り出される馬鹿馬鹿しくも哀れな作戦。しかしこれはみんな現実のことだったのだ。(アマゾン「商品の説明・内容紹介」より)
これぞ「セミパブリックな空間」。見事な場所選びだと感心しました。
背景を考える
演劇はどんな時間に起こるのか。
平田オリザさんは、茶の間のようなプライベートな空間では演劇は成立しにくいといいました。しかし、「実は、プライベートな 空間でも演劇は可能なのだ」といいます。
ただ、その場合には観客にとって必要な情報を導き出すことができる外部の人間の存在が、どうしても要求されてくる。
(p52)
それを「セミパブリックな時間」と言っています。論理的でわかりやすい説明です。
茶の間のようなプライベートな空間に、外部の人間が来て、観客にとって必要な情報を導き出す。
この見事な例として『東京物語』のオープニングを紹介します。
尾道から東京へ子どもたちを訪ねて行く準備をしているのですが、老夫婦の笠智衆さんと東山千榮子さんの会話では、状況が伝わってきません。
とみ「空気枕ぁそっちぃはいりゃんしたか?」
周吉「空気枕ぁお前に頼んだじゃないか」
とみ「ありゃんしぇんよ。こっちにゃ」
周吉「そっちょう、渡したじゃないか」
とみ「そうですか?」
空気枕に大きな意味はないのです。
もう、東京に行く目的は、時間をかけて二人で何度も話しているでしょう。今さら話題にならないのです。
そこに隣のおかみさんが声を掛けます。
細君「今日お発ちですか?」
そうすると、東京へ子どもに会いに行くと、隣のおかみさんと会話のキャッチボールを始めます。
小説だったら、地の分で説明できることも、こうしてドラマを仕込まなければなりません。そこで、映画では老夫婦の会話、表情などが映され、観客は表情から感情を読み取ろうとするわけです。そこが小説にはない映画の面白いところ。
演劇だと、ナマの人間が目の前にいて、見る、見られるの関係になって、役者さんも観客の雰囲気を感じ取って演じる。そんな違いがあるんだと思います。演劇は詳しくないのでこのへんで。
登場人物を考える
平田オリザさんは、登場人物を「内部」「外部」「中間」と三つの分けます。
- 内部:「問題」に直面する人々
- 外部:問題をもたらしたり、問題を複雑にしたり、問題を解決に導いたりする
- 中間:その中間に位置する
そして、こう言います。
だが実は、人数構成事態は目安にすぎず、さほど重要な要素ではない。本当に重要なのは、その人物構成が、いかにバラエティに富んでいるかということだ。ここでいうバラエティとは、各登場人物が持っている情報量の差という点にかかっている。p85
この本を読んだ直後に、ディズニーのアニメ『ポカホンタス』を見ました。「内部」「外部」「中間」に分け、 登場人物の「情報量の差」を考えると、 設定が素晴らしいのがよく分かりました。
なぜ私が『ポカホンタス』を見たのか。
「伊集院光の週末TSUTAYAに行ってこれ借りよう! 」というラジオ番組があったのを知り、230回の放送全部を聞きました。
その中で「ももいろクローバーZ」の高城れにさん『ポカホンタス』を紹介していたのです。
番組は、平田オリザさんが高校演劇を描いた小説を映画化した『幕が上がる』の宣伝を兼ねているようでした。「ももいろクローバーZ」が出演していたからです。
この時は既に『演劇入門』を読んでいましたから、『幕が上がる』の話題も興味深く聞きました。
『ポカホンタス』は実在した人物をディズニーがアニメ化した映画です。
ポカホンタスはネイティブアメリカンのポウハタン族の娘。ポカホンタスはお転婆娘という意味のあだ名です。
そこに、財宝を求めてイギリス人が大勢やってきます。その一人、ジョン・スミスとポカホンタスが恋に落ちます。ここまで話すとシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』と同じパターンであるのが分かります。
ポカホンタス側
- チーフ・パウアタン首長
侵入者という「問題」に直面する。
ポカホンタスの父。ジョン・スミスを殺そうとする。
ポカホンタスにとってはそれが「問題」。 - ココアム
村の英雄。ポカホンタスにプロポーズをするが真面目すぎてつまんない。
ライバル「ジョン・スミス」登場という「問題」に直面する。 - 柳の木のおばあさん
精霊だから何百年、何千年も生きている。ポカホンタスのお母さんも柳の木のおばあさんに相談していたから、お母さんことも、よく知っている。
ポカホンタスとの「情報量の差」が大きいから、よいアドバイスができる。 - 祈祷師
イギリス人たちがきたとき、チーフは祈祷師に聞く。
祈祷師は万能だから何でも教える「情報量の差」が大きい。
ジョン・スミス側
- ジョン・ラトクリフ総督
問題をもたらす代表。
スペインのように財宝を狙っている。今まで成功していないから、出資者から圧力を受け、汚名を返上しようとしている。 - ウィギンズ・執事
トーマス
トムとジェリーのようなドタバタ
- いつもポカホンタスと一緒にいる。
アライグマのミーコ
ハチドリのフリット - 総督側
犬のフリット
いたずら好きで、犬とアライグマ、ハチドリが別に出会って、追いかけっこをしたり、
トムとジェリーのようなドタバタを繰り広げる。
だれが、問題をもたらし、問題を複雑にし、解決に導くのか。
それがはっきりして、とても面白かった。
こんなことを考えながら見る『ポカホンタス』は別な楽しみ方ができます。
私は平田オリザさんの言う「誰でも」に入るのか
平田オリザさんは、「戯曲は誰もが書けるものだと思っている」と言います。
しかし、その「誰でも」に私が入るのでしょうか。
平田オリザさんの Wikipedia を見たら、びっくりするようなことが書いてありました。
高校2年、16歳のときに高校を休学(のち中退)し、自転車による世界一周旅行を決行。その後世界26か国を放浪し、1981年に旅行記『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』(晩聲社)として出版している。
この本ですね。
新版・十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本
- 作者: 平田オリザ
- 出版社/メーカー: 晩聲社
- 発売日: 1996/06
- メディア: 単行本
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こういう人に「誰もが書ける」と言われても・・・。
ただ、平田オリザさんはこんな表現をしています。
本書は、演劇を通じて人間を見る、演劇を通じて世界を見るということを、できるだけ多くの人に考え、体験してもらうために書かれている。
(略)
誰もがピアノを弾くことができるように、あるいは誰もが絵を描くことができるように、戯曲を書くことも、演劇を創ることもできていいはずだと思っている。
(略)その過程の中で見えてくる新しい世界があるはずだ。
「ピアノを弾くことができるように・・・絵を描くことができるように」。
ピアノも絵も、ピンからキリまであります。
聞くに耐えないピアノ演奏もあれば、聴衆を魅了するピアノ演奏もある。ピアノ演奏を続けていればそれなりには上達するんじゃないですか。
戯曲も書き続けていれば、それなりには上達する。そう理解しました。
本の帯にこんなことが書かれてありました。
「私の人生を変えた一冊です」
映画監督:本広克行 ももいろクローバーZ主演『幕が上がる』、『踊る大捜査線』シリーズ
戯曲を書けば人生変わる・・・人を見る視点、自分を考える視点、生きる意味が変わると思います。